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尾上辰之助の元妻は藤間容子【画像あり】離婚理由や息子についてまとめました。

尾上辰之助

歌舞伎の名門「音羽屋」に生まれ、類まれな才能で人々を魅了した初代・尾上辰之助さん。酒豪としても知られる豪快な一面の裏には、繊細で心優しい素顔がありました。

今回は、彼を支えた妻や息子との関係、そして若すぎる死の理由について深く掘り下げていきます。

Sakura
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是非さいごまで楽しんでご覧ください!

尾上辰之助の妻について

歌舞伎界の華やかなスターとして昭和を駆け抜けた初代・尾上辰之助さん。その才能と人柄で多くの人を魅了しましたが、そのプライベート、特に妻である藤間容子さんとの関係は、多くの人々の関心を集めました。

辰之助さんと容子さんが結ばれたのは、1973年11月のことです。当時、辰之助さんは人気絶頂の若手歌舞伎役者。容子さんは藤間流の家元、六代目藤間勘右衛門の娘であり、お互いの家が歌舞伎と日本舞踊という伝統芸能の世界で深く繋がっていました。

結婚後、容子さんは夫を支えるだけでなく、長男のあらしさん(後の四代目尾上松緑さん)をもうけ、尾上家の女主人として、その重責を担うことになります。歌舞伎の名門である音羽屋を切り盛りし、夫の舞台を支える姿は、多くの人から「おしどり夫婦」と称賛されていました。

離婚

順風満帆に見えた辰之助さんと容子さんの夫婦関係でしたが、1986年頃、二人の間に別居騒動が勃発し、世間に衝撃が走ります。結果的に二人は離婚に至りますが、その原因については様々な憶測が飛び交いました。

最も大きく噂されたのが、辰之助さんの女性関係でした。結婚会見での「バレないようにやりますよ」というジョークともとれる発言が現実のものとなり、ある女優との不倫が報じられたこともありました。奔放な辰之助さんの言動が、容子さんの心を傷つけたのではないかと言われています。

一方で、容子さんにも梨園のしきたりに馴染めなかったのではないかという声がありました。尾上家の女主人として、伝統を重んじる生活が求められる中、派手なものを好み、高価な着物や宝石類を買い揃えていたという話もありました。また、重要な法要に姿を見せなかったことも、夫婦の間に深い溝ができていたことを示唆していました。

しかし、これらの話はいずれも噂の域を出ないもので、具体的な離婚理由は明らかになっていません。ただ、人気歌舞伎役者の妻としてのプレッシャー、独特の環境、そして辰之助さんの病気が進行していく中で、夫婦関係が変化していったことは想像に難くありません。結局、二人の離婚問題は、辰之助さんの突然の死によって、終止符が打たれることになります。

息子

辰之助さんと容子さんの間には、一人息子がいます。それが、現在の四代目 尾上松緑さんです。

幼い頃から、父や祖父の背中を見て育ち、歌舞伎役者の道を歩んできた松緑さん。12歳という若さで父を亡くすという辛い経験をしましたが、その悲しみを乗り越え、立派な歌舞伎役者として大成しました。

父という役者がこういう役を演じていたと感じてもらえるように、一所懸命勤めたい」と、父の追善公演で語っていた松緑さん。父・辰之助さんの当たり役だった『すし屋』のいがみの権太を初役で演じた際には、「父や祖父の匂いがどこかにある権太」を表現したいと意気込みを語っていました。

また、松緑さんはNHK大河ドラマ『葵 徳川三代』で徳川家光役を演じた経験もあります。しかし、その後は映像作品への出演を断っています。その理由を、「舞台しかやって来なかった自分が、いきなり映像で大役を頂くのは、映像を主戦場にしている役者さん達に失礼だから」と語っており、舞台にかける情熱と、謙虚で誠実な人柄がうかがえます。

尾上辰之助の妻に関するその他の情報

死因

尾上辰之助さんは、1987年3月28日、40歳という若さでこの世を去りました。その死因は、肝硬変による食道静脈瘤破裂でした。

辰之助さんは、歌舞伎界でも屈指の酒豪として知られていました。青年時代にはウイスキーのボトルを一本空けるほどの酒豪だったというエピソードも残されています。

しかし、酒に酔うことが、繊細な性格や、偉大な父・二代目松緑さんの後継者としてのプレッシャーを紛らわすための手段だったのではないか、とも言われています。彼の酒癖は、結果的に自身の健康を蝕むこととなり、1986年にはアルコール性肝炎で入院。一時退院して舞台復帰を果たしますが、病魔は着実に彼の体を蝕み続けました。

最後の舞台となったのは、1987年1月の『毛抜』。そのわずか2ヶ月後に自宅で倒れ、入院。そして、その10日後に帰らぬ人となりました。

生前、辰之助さんと共演した美輪明宏さんは、「お父様(二代目松緑)は豪胆な人だったけれど、辰之助さんはその逆で…ものすごく繊細で、デリケートな人だった」と語っています。その繊細さゆえに、酒に救いを求めてしまったのかもしれません。若すぎる死は、多くのファンに深い悲しみを与えました。

彼の死から14年後の2001年、長男である二代目尾上辰之助さんが四代目尾上松緑を襲名するにあたり、父・初代尾上辰之助さんに三代目尾上松緑という名跡が追贈されました。

経歴

初代・尾上辰之助(本名:藤間亨)は、1946年10月26日に二代目尾上松緑の長男として生まれました。屋号は音羽屋。父譲りの豪快かつ巧みな芸風と、優れた口跡の持ち主として知られています。

1952年、歌舞伎座『伽羅先代萩』の鶴千代で初代尾上左近を名乗り初舞台を踏みました。1965年には初代尾上辰之助を襲名。同世代の四代目尾上菊之助(のちの七代目菊五郎)や六代目市川新之助(のちの十二代目團十郎)と**「三之助」**と呼ばれ、若手歌舞伎役者として絶大な人気を集めました。

彼は歌舞伎だけでなく、日本舞踊の藤間流家元・五代目藤間勘右衛門も務めるなど、幅広い才能を発揮しました。1972年には、十代目市川海老蔵(のちの十二代目團十郎)や二代目中村吉右衛門と『勧進帳』の弁慶、富樫、義経を日替わりで演じるなど、同世代の役者たちと切磋琢磨しました。その功績が認められ、1976年には芸術選奨新人賞を受賞しています。

歌舞伎以外でも、NHK大河ドラマ『竜馬がゆく』や『徳川家康』、演劇『リチャード三世』など、多くの映像作品や舞台に出演し、幅広いファンを獲得しました。しかし、若くして病魔に蝕まれ、1987年3月28日に肝硬変による食道静脈瘤破裂のため、わずか40歳でこの世を去りました。その早すぎる死は、多くの人々に衝撃と深い悲しみを与えました。

今回は「尾上辰之助の元妻は藤間容子【画像あり】離婚理由や息子についてまとめました。」と題して記事をお届けしました。

Sakura
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