時代を超えて愛されるメロディーに、人生の切なさを描いてきた作詞家・来生えつこさん。
実は、彼女はかつて7年間にわたる父親の介護に奔走し、その経験を赤裸々に語って多くの人々を勇気づけてきました。
華やかなヒットメーカーでありながら、一人の女性として老いや病気に立ち向かった来生さんの「現在」を知りたい方が増えています。
本記事では、来生さんのプロフィール、弟・来生たかおさんとの絆、そして波乱万丈の人生の舞台裏を、心温まるエピソードと共にお届けします。

是非さいごまで楽しんでご覧ください!
目次
来生えつこの現在
作詞家・来生えつこさんの名前が今再び注目されている背景には、彼女が手掛けた名曲が時代を超えて再評価されていること、そして親の介護という誰もが直面するテーマを実体験として公表していることが挙げられます。
2025年現在、来生えつこさんは77歳を迎えられました。
以前の情報によると、年齢的なこともあり、第一線での表立った活動はセーブし、マイペースで穏やかな生活を送られているようです。
しかし、2020年代に入っても、彼女の過去のインタビューや著書は、介護問題に悩む方々にとって今なお重要な情報源となっています。彼女はエッセイストとしても活躍していたため、その率直で飾らない言葉が多くの読者の共感を呼んでいます。
来生さんが表現した「恋の切なさ」と、実際に経験した「人生の苦悩」が交差する点に、多くの人が魅力を感じ、「今どうしているのだろう?」と関心を持つ理由があるのでしょう。
来生えつこのプロフィールと経歴
来生えつこさんは、1948年3月9日、東京都で生まれました。
学生時代は、都立豊島高等学校を卒業後、女子美術短期大学へと進学し、美術や芸術の分野で感性を磨きました。この芸術的なバックグラウンドが、後に彼女が生み出す詩的な歌詞に影響を与えているのかもしれません。
卒業後すぐ作詞家になったわけではなく、そのキャリアは非常にユニークです。初期は、雑誌『話の特集』やアニメ制作で有名な虫プロダクション、PR雑誌などで編集者を務めていました。編集という仕事を通して培った、言葉を整理し、テーマを深く掘り下げる力が、作詞家としての成功の土台となりました。
編集者をしながらフリーライターとしても活動していましたが、転機が訪れたのは、弟である来生たかおさんの曲に詞をつけたこと。この姉弟コンビでの楽曲制作がきっかけとなり、プロの作詞家としてデビューを果たします。
時代を彩った功績と代表曲
来生えつこさんの最大の功績は、弟・来生たかおさんとの「ゴールデン・コンビ」として、1980年代のニューミュージック界に数々の金字塔を打ち立てたことです。
薬師丸ひろ子「セーラー服と機関銃」:1981年の大ヒットで、姉弟の名を世に知らしめました。
中森明菜「スローモーション」(デビュー曲):1982年。切ないラブバラードは、彼女の代表作の一つです。
中森明菜「セカンド・ラブ」:1982年。わずか17歳だった中森明菜さんに、大人の恋の切なさを歌わせ、社会現象となりました。
来生たかお「Goodbye Day」:ファンに愛され続ける名曲です。
彼女が描く歌詞は、恋のはかなさや、別れの予感など、女性の繊細な感情を詩的かつ情景豊かに表現し、多くのリスナーの心をつかみました。作詞家以外にも、小説家、エッセイストとしても多彩な活動を展開しています。
来生えつこは7年間父親の介護をしていた。
華やかな作詞家としてのキャリアの裏で、来生えつこさんは人生において重い試練に直面していました。それが、7年間にわたる父親の介護です。
来生えつこさんは、この壮絶な介護の経験を隠すことなく、2002年には書籍としてまとめ、読売新聞での連載記事や『婦人公論』などで赤裸々に語りました。エッセイストとしての彼女の言葉は、介護ストレスに悩む多くの中高年女性にとって、大きな共感と勇気を与えるものとなりました。
来生さんは長年、ご自身の夫とご両親と一緒に二世帯住宅で暮らしていました。
1995年、父親が脳梗塞で倒れてしまいます。残念ながら発見が遅れたため、父親は失明という重い後遺症を負うことになり、ここから7年間に及ぶ在宅介護生活が始まりました。
脳梗塞で倒れてから7年後、父親はこの世を去りました。
来生さんは、仕事をセーブせざるを得なくなり、介護に奔走する日々を送りました。病院への送迎、食事の準備、生活全般のサポートなど、その苦労は計り知れません。
ただし、来生さんは一人で抱え込んだわけではありません。夫や、弟の来生たかおさん夫妻もこの介護に深く関わりました。来生たかおさんも、仕事の合間を縫って、父親の通院の付き添いなどを担っていました。
しかし、実の親子だからこその感情的な衝突や、生活習慣の違い、そして介護に伴うストレスは、私たち一般の人々が抱えるものと何ら変わりませんでした。来生さんは、その経験を乗り越え、父親を看取るまで献身的に尽くしました。
父親の他界後、母親も認知症を患い、2014年にインフルエンザがきっかけで亡くなっています。来生家は、誰もが向き合うべき老いや病気の問題に、正面から向き合った家族でした。
来生えつこの現在に関するその他の情報
ここでは、来生えつこさんの音楽的なパートナーである弟・来生たかおさんとの絆や、若い頃のエピソードなど、その他の魅力的な情報をご紹介します。
来生えつこの結婚歴と夫は?
来生えつこさんについて検索する際、「結婚」や「夫」というキーワードが多く見られるのは、主に弟の来生たかおさんとの関係を「夫婦」と誤解されることが多かったためです。特に「セーラー服と機関銃」が大ヒットした1980年代には、名コンビゆえに夫婦と勘違いする人が続出しました。
しかし、来生えつこさんと来生たかおさんは実の姉弟です。
来生えつこさんご自身の結婚生活については、以下の情報が明らかになっています。
- 夫の存在: 来生えつこさんは結婚されており、夫がいらっしゃいます。
- 同居と協力: 彼女は夫とご自身の両親とともに二世帯住宅で長年暮らしており、前述した父親の7年間の介護生活において、夫も協力してサポートにあたっていました。
私生活についてはあまり公表されていませんが、公表された介護のエピソードから、夫や弟夫妻と協力し合える、温かく協力的な家庭を築いていることがうかがえます。
来生えつこと来生たかおの関係
来生えつこさんと来生たかおさんは、2歳違いの実の姉弟です。
姉が「作詞」、弟が「作曲と歌」を担当するという、日本の音楽界では非常に珍しい体制で、数々の大ヒット曲を生み出してきました。彼らの楽曲は、穏やかで心地よいメロディー(ピアノ弾き語りが多い)に、人生の機微や切ない恋愛感情を織り込んだ歌詞が合わさり、多くのファンに愛されています。
特に1980年代を中心に、中森明菜さん、薬師丸ひろ子さんなど、トップアイドル・歌手への楽曲提供を通じて、彼らのコンビは「ゴールデン・コンビ」としてその名を不動のものにしました。
氏名(本名): 来生たかお(きすぎ たかお)
生年月日: 1950年11月16日
出身: 東京都
経歴: 作曲家、シンガーソングライターとして活躍。姉の来生えつこさんが作詞を手掛けることが多く、姉弟で一貫した世界観を持つ楽曲を制作し続けています。
功績: 自身の楽曲以外にも、提供曲では松田聖子「SQUALL」、中森明菜「セカンド・ラブ」など、数々の名曲の作曲を手掛けています。
来生えつこの若い頃
来生えつこさんの若い頃の写真は、聡明で知的な雰囲気を漂わせています。
作詞家として大活躍していた40代の頃(1991年当時の写真が知られています)も、非常にいきいきとしていました。
彼女の若かりし頃のエピソードとしては、以下のものがあります。
- フリーライター時代: 作詞家として本格的にデビューする前は、編集者として働きながら、フリーライターとしても活動していました。この多様な経験が、後の小説家・エッセイストとしての基礎を築き、言葉の引き出しの多さに繋がっています。
- 芸術分野への関心: 女子美術短期大学出身という経歴からわかるように、若い頃から芸術全般に対する高い関心と素養を持っていました。この感性が、メロディーに寄り添う情景豊かな歌詞を生み出す力となりました。
- 異業種での経験: 虫プロダクションというアニメーション業界での経験も持っており、音楽業界とは一見遠い場所での経験が、彼女のユニークな視点を育んだと考えられます。
今回は「来生えつこの現在について。父親の介護のこと結婚や夫の情報なども調べました!」と題して記事をお届けしました。

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