「恋人に ふられたの よくある話じゃないか…♪」このフレーズと、おかっぱ頭で少しニヤリと笑うような顔が目に焼き付いている方も多いのではないでしょうか?
今回は、独特の歌声と強烈なインパクトで一世を風靡した歌手、日吉ミミさんの生涯を深掘りします。なぜ彼女の歌声は私たちの記憶から離れないのか?
結婚生活や、壮絶な闘病の末の感動的な最期、そして「あのプロレスラーと間違えられる理由」まで、知られざるエピソードをたっぷりお届けします!

是非さいごまで楽しんでご覧ください!
目次
日吉ミミの結婚について
個性的な歌声で一世を風靡した歌手、日吉ミミさん。彼女の私生活についてはあまり知られていませんが、他界されるまで結婚生活を全うされていました。
公の場では、ご自身のプライベートについて多くを語る方ではありませんでしたが、その波乱に満ちた歌手人生を陰で支え続けた夫の存在は非常に大きなものだったことが、後の情報からわかっています。
夫は黒岩慶三
日吉ミミさんの夫は、黒岩慶三(くろいわ けいぞう)氏です。
黒岩氏は、日吉さんの所属事務所の社長を務めていました。つまり、公私ともにパートナーとして、日吉さんの芸能活動をマネージャー兼配偶者として支えていたことになります。
二人の出会いや馴れ初めに関する具体的な情報は公開されていませんが、黒岩氏は日吉さんの歌手活動を最も身近で理解し、サポートし続けた人物です。
日吉さんが2009年に膵臓がんを発症し、壮絶な闘病生活に入ってからも、黒岩氏は献身的に看病にあたりました。最期の瞬間も、黒岩さんと親族の方々に看取られながら息を引き取ったと報じられています。
日吉さんの遺志により、葬儀は近親者のみの家族葬で済まされ、お別れの会も行われませんでしたが、これはご夫婦の絆が深く、静かな別れを選びたかったという思いの表れかもしれません。
日吉ミミの経歴とプロフィール
芸名:日吉 ミミ(ひよし みみ)
本名:黒岩 和子(くろいわ かずこ)<旧姓:小池>
生年月日:1947年7月21日
出身地:埼玉県浦和市(現:さいたま市)
没年月日:2011年8月10日(享年64歳)
活動開始:1967年(池和子名義)
家族:夫(黒岩慶三氏)、子どもの情報なし
日吉ミミさんの本名は黒岩和子さん。旧姓は小池でした。
彼女のキャリアの始まりは順風満帆ではありませんでした。1967年、「池和子」という芸名で演歌歌手としてデビューし、3枚のシングルをリリースしますが、なかなかヒットに恵まれません。
この不遇の時代を乗り越えるため、1969年11月に「日吉ミミ」と改名し、再起を図ります。この改名後の2作目として1970年にリリースされたのが、彼女の代名詞となる「男と女のお話」でした。
鼻にかかったようなハスキーハイトーンの独特な歌い方、そしておかっぱ頭の無表情な姿が相まって、その強烈なインパクトは子供たちにまで届き、大ブレイク。最高でオリコン6位、累計60万枚を超える大ヒットとなりました。
ブレイク後も、寺山修司氏が作詞した「ひとの一生かくれんぼ」などで独特の存在感を確立します。そして1978年には、TBSの人気ドラマ『ムー一族』の劇中歌として「世迷い言」を歌い、再び脚光を浴びました。
1980年代に入ると、フジテレビのバラエティ番『オレたちひょうきん族』に「ごっくん娘」としてレギュラー出演するなど、タレントとしても活躍。歌手の枠を超えた幅広い世代にその名を轟かせました。
晩年は、横浜ベイスターズ私設応援団の副会長を務めるなど、多方面で活動されていました。そして、最後の瞬間まで歌手としてステージに立つことに強い意欲を持ち続けていました。
日吉ミミの結婚に関するその他の情報
日吉ミミさんの波乱に満ちた生涯には、名曲の誕生秘話や、他の著名人との混同といった興味深いエピソードが多くあります。
日吉ミミの死因
日吉ミミさんは、2011年8月10日午前5時30分に、膵臓(すいぞう)がんのため、都内の病院で亡くなりました。享年64歳という若さでした。
彼女の闘病生活は壮絶なものでした。
- 発覚: 2009年4月、再デビュー40周年記念曲のキャンペーン中に体調を崩し、訪れた病院で膵臓がんと診断され緊急入院。
- 手術: 8時間におよぶ大手術を乗り越え、約3ヶ月で退院。この時点では病気を公表していませんでした。
- 公表と活動: 2010年5月、命への思いを込めた術後初のシングル**「いのちのしずく」**を発表する際に、初めて膵臓がんの手術を受けていたことを明かしました。その後も、抗がん剤治療を定期的に受けながら、テレビやラジオ、キャンペーンイベントに精力的に出演しました。
- 最期: 2011年6月に体調を崩して再入院。翌年に控えたデビュー45周年に向け、病床で夫の黒岩慶三氏や関係者と記念曲のアイデアを活発に交わすなど、「私は強く生きるのよ」と活動再開に強い意欲を示していました。しかし、容体が急変し、夫と親族に看取られて息を引き取りました。
- 葬儀: 故人の遺志により、葬儀は親族のみの家族葬としてすでに済まされており、お別れの会は行われませんでした。
- 納骨: 骨つぼには、闘病中に発表した最後のCD**「いのちのしずく」**が納められたといいます。これは、歌を通じて生き抜くことへのメッセージを伝え続けた彼女らしい、感動的なエピソードです。
日吉ミミがプロレスで調べられる理由
インターネットで日吉ミミさんの名前を検索すると、「プロレス」や「女子プロレスラー」というキーワードが関連して出てくることがあります。これは、日吉ミミさん(歌手)と、元女子プロレスラーのミミ萩原(みみ はぎわら)さんが混同されているためです。
- 日吉ミミさん: 正真正銘の歌手であり、プロレスとは全く無縁です。
- ミミ萩原さん: 元々はアイドル歌手・女優として活動していましたが、1978年に女子プロレスラーに転身しました。デビューから87連敗という驚異的な記録を持ちながらも、後にタイトルを奪取し、「元祖ビジュアルクイーン」として活躍した人物です。
二人が同じ「ミミ」という芸名で1970年代に活動していたこと、そしてミミ萩原さんがアイドルからプロレスラーという異色の経歴を持っていたことから、特に若い世代のネットユーザーや、当時のことをよく知らない層の間で「日吉ミミもプロレスラーだったのか?」という誤解が生じやすくなっています。
現在でも、一部のブログやサイトでは、この二人が同一人物であるかのような誤った情報が書かれている場合がありますので注意が必要です。
日吉ミミさんは、あくまで「男と女のお話」を歌った唯一無二の歌手です。
日吉ミミのエピソード

日吉ミミさんのキャリアと楽曲にまつわる、興味深いエピソードを複数ご紹介します。
彼女の代名詞である「男と女のお話」は、1970年の大ヒットを記録し、その年の第21回NHK紅白歌合戦への初出場を決めました。しかし、この出場は彼女の実力だけでなく、運命的な巡り合わせによるものでした。
当初、NHKはこの枠を大物歌手の江利チエミさんにオファーしていましたが、江利さんは『ヒット曲がなく、前年に比べて歌唱力が上がっていない』という厳しい自己評価から、紅白出場を辞退。この辞退は当時としては異例で世間を驚かせました。
この「空白の枠」に、勢いに乗っていた日吉ミミさんが滑り込む形で出場が決定したのです。彼女自身も、芸能界の仕事は「運が命」だと感じたことでしょう。
日吉ミミさんの楽曲のなかで、特に異彩を放つのが再デビュー曲の『おじさまとデート』です。
一見すると、歳の離れた男性との恋愛を軽妙に描いた歌ですが、現代的な視点で見ると、お金のやり取りがある「パパ活」を連想させるような、どこか歪んだ関係性を匂わせる魅力があります。
歌詞には「叱らないでキスをしてね 私は大人」というフレーズが登場し、その歌い方がまた強烈です。日吉さんの歌唱は、通常の歌唱技術を超越し、「へろっへろ」で「メロメロ」な甘えと色気が溢れ出ています。音程が不安定になるギリギリのラインを攻めながらも、それがかえって聴き手の背徳感を刺激し、楽曲の世界観を深めています。
この曲の音楽性は高く、フルートやマリンバなどを使った編曲も非常に優れており、単なるコミックソングに終わらない、審美的なエンターテイメントとして成立しています。
1978年に大ヒットした「世迷い言」は、TBSの人気ドラマ『ムー一族』の劇中歌として生まれました。この曲がユニークなのは、歌詞に「回文」が織り込まれている点です。
この曲の企画は、演出家であった久世光彦氏のアイデアによるもので、作詞をピンク・レディーなどで飛ぶ鳥を落とす勢いだった阿久悠氏に依頼。久世氏からの「決めの言葉は世の中バカなのよという回文で」という指定がありました。
この「ヨノナカバカナノヨ」というメッセージは、ナンセンスな笑いとシュールなギャグが特徴の『ムー一族』の世界観にぴったりでした。
作曲は、当時からカリスマ的な人気を誇っていた中島みゆきさんが担当。阿久悠氏自身も、この「久世光彦×日吉ミミ×中島みゆき」という異色のコラボレーションに興奮したと語っています。オリコンでの成績は振るわなかったものの、阿久悠氏にとって「なぜか売れなかったが愛しい歌」として、時代を刻んだ重要な作品となりました。
今回は「日吉ミミが結婚した夫は黒岩慶三!その生涯や知られざるエピソードまとめ。」と題して記事をお届けしました。

最後までお読みいただきありがとうございました!
良かったら他の記事もご覧ください。




