1982年におきた松山ホステス殺害事件。当時34歳の福田和子は同僚のホステスを殺害後に逃亡して時効である15年直前で逃亡先の福井市で逮捕されました。
今回は「福田和子の死因は脳梗塞!若い頃や生い立ち【逃亡15年】」と題して記事をお届けします。
・福田和子の死因
・福田和子の生い立ち
・福田和子の息子について
是非さいごまでご覧ください!
目次
福田和子の死因
死因は脳梗塞
福田和子さんは1997年に逮捕後に1999年に無期懲役の判決が下されました。その後最高裁判所に上告をしましたが最高裁で無期懲役が確定し和歌山刑務所に監修されました。
福田和子さんは2005年2月に刑務所の作業中にくも膜下出血で倒れて病院に搬送されて緊急手術を受けて入院しましたが、そのまま意識が戻らずに3月10日に脳梗塞で死亡しました。
くも膜下出血で入院することになりその後意識が戻らず脳梗塞で死亡したので脳梗塞が死因になります。
くも膜下出血は過剰なストレスなども発症の原因の一つなので、長年の逃亡生活でのストレスで発症してしまった可能性もありますね。
福田和子さんの長男の証言によると、福田和子さんは一審で松山拘置所にいるときに長男宛に遺書を書き自殺未遂を行ったようです。
遺書の一部には「遺骨は根上(ねあがり)に持って行ってほしい」と書かれており、根上とは福田和子さんが逃亡先で和菓子屋の内縁の妻として働いていた場所です。
続いては福田和子の生い立ちについて見ていきましょう。
福田和子の生い立ち
福田和子さんの生涯はどのようなものだったのでしょうか?生い立ちについて見ていきたいと思います。
愛媛で生まれ幼少期に両親は離婚
福田和子さんは1948年1月2日に愛媛県松山市で生まれました。当時母親は20代前半の年齢でした。
1歳の時に両親は離婚したので母親に引き取られて祖父母のいる愛媛県川之江市(現在の四国中央市)に移り住んでしばらくは祖父母に育てられました。
福田和子さんが小学校2年生の時に母親が再婚したのでそれからは母親と今治市内で暮らした後に、再婚した父親の実家にある来島に移り住みました。
よそ者に厳しい島での生活に嫌気がさした母親は再び今治市に引っ越しをしています。
母親は売春宿を経営していたことなどもあり、福田和子さんの生活環境を心配した祖父母が再び引き取ることになりまた川之江市で生活をするようになりました。
交際相手の事故死
中学卒業後に川之江高校に進学した福田和子さんですが、高校2年生の時に転向してきて出会った同級生と交際をしました。
幸せな時間は長くは続かず、バイクで福田和子さんを迎えにいく途中に交際相手はダンプカーと衝突事故を起こして数日後に亡くなってしまいました。
その後、学校で他のトラブルにも巻き込まれた福田和子さんは高校3年生の時に退学しています。
交際相手と強盗
交際相手が事故死した翌年に1歳年上の男性と出会い新しい交際をスタートさせました。
次第に素行が悪くなりだし無断外泊などを繰り返すようになり、その後母親の反対を押し切って家を出て交際相手と同棲生活を始めました。
同棲生活を始めてから福田和子さんは年齢を偽りキャバレーに勤務して生活費を稼いでいましたが17歳の福田和子さんにとっては慣れない仕事で休みがちになり、交際相手は仕事を辞めてふらふらしていたので次第に生活が苦しくなっていきました。
生活の困窮から2人で高松国税局公舎に強盗に入り住人を紐で縛り現金やカメラを奪い逃走する強盗事件を起こします。
警察の捜査は難航しましたが、福田和子さんが奪ったカメラを質屋に入れたことが手掛かりになり逮捕されました。
松山事件の被害者になる
逮捕後に松山刑務所に入った福田和子さんは「松山刑務所事件」の被害者となります。
当時松山刑務所に服役していた暴力団が刑務所の看守を買収して拘置所内を自由に歩き回り、飲酒、賭博、煙草、脅し、女性囚人の強姦などを行う無法地帯となっていました。
やがて暴力団の組員だけではなく看守までも女性囚人を強姦するようになり、福田和子さんは服役中に看守により被害者となりました。
この時受けた被害が福田和子さんのトラウマになり「刑務所に入りたくない」という気持ちが強くなりその後に起こした殺人事件の15年にもおよぶ逃亡につながったとされています。
2度の結婚、子供は4人
出所した福田和子さんは1968年に最初の旦那さんと結婚をして一男一女の2人の子供を授かります。その後福田和子さんは他の男性と不倫をして1973年に離婚をします。
離婚後は不倫相手の男性と1974年に再婚してその男性との間にも一男一女の2人の子供を授かりました。
1981年には大洲市に一戸建てを購入して離婚した旦那との間の子供2人と再婚相手の子供2人の6人家族で生活していました。この大洲時代の生活が福田和子さんや家族にとっては一番楽しかった記憶として残っているようです。
1982年に福田和子さんは同僚ホステスを殺害しました。夫にはホステスに襲われそうになったので正当防衛で殺害してしまったと主張していいくるめたようです。
夫は自主するように説得しましたが、福田和子さんはそれをかたくなに拒んだため夫は折れて一緒に遺体遺棄を手伝いました。
事件後に捜査の手が自分のところまできていることを知った福田和子さんは家族6人での夕食をすませた後に家を後にして逃亡しました。
その後やってきた刑事に任意同行を受けて死体遺棄容疑で逮捕されました。
福田和子の息子
福田和子さんには4人の子供がいますが、その中でも長男を溺愛していたようで事件後にも長男とは頻繁に接触していました。
石川の和菓子屋で同居
事件後に石川県にたどりついた福田和子さんは、職を探しましたが身分もあかせない立場なので雇ってもらう場所がなかなか見つかりませんでした。
不採用になった住み込みのスナックに飲みにいった時に「京都から家でしてきた」「親が決めた相手と結婚させられた」などと嘘をつき経営者の同情をさそってそのスナックで働くことになりました。
そのお店に来店した根上の和菓子店の店主と仲が良くなり内縁の妻として老舗和菓子屋で働き始めました。
働き始めてしばらくしてから息子に連絡をとり和菓子屋に呼び寄せて「甥っ子」として同居して見習いとして働かせました。
最終的には息子を呼び寄せたことで息子の荷物に入っていた免許証の住所が愛媛県松山市になっていたことがら福田和子であることがバレてしまい再び逃走することになりました。
その後も息子とは連絡をとりあう
石川の和菓子屋から逃げた後の逃走中に福田和子さんは何回も長男には連絡を入れてたまに会ったりもしていました。
長男が結婚することになったときには長男と婚約者を京都に呼び寄せて昼間にデパートで食事をしたそうです。
長男が結婚して子供が生まれたときにはその子の名付け親になり、お宮参りの着物まで送りました。
息子に罪はないの?
指名手配中の福田和子と連絡をとりあってたまに会っていた長男の息子には逃走の手助けの罪などはないのでしょうか?
刑法第105条には「親族による犯罪に関する特例」が設けれていて。 親族が犯人の利益のために犯人隠避罪を犯したときには、「その刑を免除することができる」という規定があり、それによって指名手配犯の福田和子さんに会っていた長男は罪に問われなかったようです。
まとめ
今回は「福田和子の死因は脳梗塞!若い頃や生い立ち【逃亡15年】」と題して記事をお届けしました。
福田和子さんは逃走中や逮捕後も長男と連絡をとり、長男からは「出所後は一緒に住もう」と言葉を掛けられていましたが服役中にくも膜下出血で倒れてその後意識は戻らなくなり脳梗塞で亡くなりました。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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