昭和19年から6年間、ジャングルで取り残された32人の兵隊たちと生活を続けてきた比嘉和子さん。昭和25年に米軍により救出され昭和26年7月に帰国しました。
今回は「比嘉和子の晩年!アナタハンの女王のその後と生い立ち」と題して記事をお届けします。
・比嘉和子の晩年について。
・比嘉和子の生い立ち
是非さいごまで楽しんでご覧ください!
目次
比嘉和子の晩年について
1945年から1950年にかけて北マリアナ諸島のアナタハン島で男性32人とだた1人女性として共同生活を送った比嘉和子さんのその後の話や晩年について書いていきます。
1951年に帰国
比嘉和子さんは1951年に帰国し沖縄の名護に帰りました。当時の年齢は28歳です。
名護に帰ってきた時の服装は米軍に与えられたワンピースを着ていて、荷物は風呂敷包み1つだけでした。名護にいる家族には生存したいたことや救出されて帰国してくる連絡などはなく比嘉和子さん1人で帰ってきたそうです。
夫の比嘉正一
比嘉和子さんはアナタハン島にいる時に比嘉正一さんと結婚していましたが、比嘉正一さんがパガン島に行くために島を離れている間にアナタハン島とパガン島は米軍機の爆撃をうけて2人は離れ離れになっていました。
帰国後に正一さんを探そうとしていた和子さんですが、正一さんは和子さんが亡くなっていると思い沖縄で再婚して子供もいたので、家族から反対されて正一さんを探すことは止めれてしまいました。
後に正一さんの耳に和子さんが生きて帰ってきたことが知らされて、正一さんは和子さんを訪ねて『すまなかった』と言い土下座で謝罪をしました。
料亭「南栄楼」で務める
比嘉和子さんは名護市に戻ってから最初に料亭の「南栄楼」で務めました。住み込みの女給として働いていましたが、予約が一カ月先までうまり、本州から和子さん目当てにお客さんがくるほど人気だったようです。
比嘉和子さんで一儲けを企む人が集まり始める
比嘉和子さんの人気にあやかってお金儲けを企む人が集まり始め、上京することになりました。
上京するときには比嘉和子さんの兄が一緒についていきましたが、比嘉和子さんは2年後に沖縄に帰りましたが、お兄さんが沖縄に帰ってきたのは13年後だったそうです。
映画「アナタハン島の真相はこれだ」に出演
昭和28年4月には映画「アナタハン島の真相はこれだ」に比嘉和子さん自ら出演しました。契約金は30万円で現在の価値だと1000万円以上ですが、そのお金は興行師に入って比嘉和子さんには入りませんでした。
ストリップ劇場の舞台に立つ
比嘉和子さんは興行師の口車にのりストリッパーとしてストリップの劇場にも立っていました。
ストリッパーとしての人気も高かったようですが、次第に酒やギャンブルに溺れるようになり、ストリップで稼いだお金は博打でほとんど使ってしまったようです。
銀座、新宿、浅草などのストリップ劇場に立ったあとは東北巡業に行き、青森、岩手、秋田、福島などを回り、その後は富山、福井など地方巡業で回りました。
昭和29年西成で傷害事件
ストリップで地方を回ることを辞めた比嘉和子さんは昭和29年に大阪の西成区に流れました。西成では旅館で女中として働きました。
西成にきて数か月後に知り合った男性に石で顔や頭を殴られる暴行を受けて、血まみれになって病院に運ばれました。この傷害事件がきっかけとなり沖縄に帰ることになりました。
沖縄でカフェを開業
沖縄に帰った比嘉和子さんは名護の「南栄楼」で務めた後に、30歳の時に「カフェアナタハン」を開業しました。
34歳の時に再婚
比嘉和子さんは昭和33年10月30日、34歳の時に知人に紹介された男性と結婚しました。男性は2人の連れ子がいる11歳年上の荷車職人でした。
結婚後は名護高校の近くで「たこ焼き屋」をオープンして夏はかき氷も販売して大繁盛しました。
昭和49年脳腫瘍でこの世を去る
たこ焼き屋を営業しながらも合間には夫の仕事も手伝い仲良く暮らし、2人の連れ子とも仲良く暮らしていましたが、和子さんが40代半ばの時に夫が死去して、その後和子さん自身も脳腫瘍を患い1974年(昭和49年)に名護市の病院で亡くなりました。
比嘉和子の生い立ち
比嘉和子さんは大正12年5月8日(1923年)に沖縄県国頭郡名護町(現在の名護市)で兄2人、姉1人、妹1人の5人兄弟の4番目として産まれました。
比嘉和子さんが7歳の時に母親が亡くなり、その後すぐ父親が再婚して継母に育てられました。
12歳の時には父親も亡くなりました。他の兄弟と違い比嘉和子さんだけが継母との関係がうまくいかなかったので学校を中退して大阪に働きにいきました。
14歳の時に大阪岸和田にあるナニワ紡績に就職しましたが1年3カ月で沖縄に戻り、地元の飲食店などで働いていました。
17歳の時に当時出稼ぎでサイパンに行っていた兄を頼ってサイパンに行き兄の仕事を手伝いました。その後パガン島に行き食堂で働いていた時に南洋興発の社員の比嘉正一と出会い18歳で結婚しました。
20歳の時に比嘉正一がアナタハン島に転勤になったので和子さんも一緒にアナタハン島に行きました。
そして昭和19年6月比嘉正一がパガン島に行ってる時にアナタハン島は米軍の爆撃をうけて、取り残された32人の男と比嘉和子さんで6年間のアナタハン島の生活がはじまりました。
今回は「比嘉和子の晩年!アナタハンの女王のその後と生い立ち」と題して記事をお届けしました。
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