1958年頃にザ・ドリフターズのボーカリストとして活躍して女性から大人気だった歌手の井上ひろしさんについて、今回は「井上ひろしの死因は心筋梗塞!元ドリフターズで雨に咲く花が大ヒット。」と題して記事をお届けします。
・井上ひろしの死因
・井上ひろしのプロフィール
・井上ひろしとドリフターズについて
是非さいごまで楽しんでご覧ください!
井上ひろしの死因
井上ひろしさんは1985年9月19日に亡くなりました。死因は心筋梗塞で年齢は46歳でした。
1961年にはNHK紅白歌合戦にも出場した井上ひろしさんですが、1970年代には低迷期を迎えて1985年から料理店を経営するため調理の勉強を志したばかりの時に残念ながらこの世を去ることになりました。
井上ひろしのプロフィールと経歴
・本名:井上博(いのうえひろし)
・生年月日:1939年4月12日
・没年月日:1985年9月19日
・享年:46歳
・出身:神奈川県横浜市
・職業:歌手・役者・俳優
1958年の夏に行われた第3回日劇ウエスタンカーニバルに参加。ザ・ドリフターズに在籍していたので、井上ひろしとドリフターズとして参加しました。
1959年にはドリフターズから独立して井上ひろしとして「雨は泣いている」でデビューをしました。
1960年に出した「雨に咲く花」が100万枚のミリオンセラーとなり大ヒットとなりました。
1961年には「別れの磯千鳥」がヒットして同曲でNHK紅白歌合戦にも出場しています。
当時は北島三郎さんが井上ひろしショーの前歌をやっていたこともあり、北島三郎さんは演歌ではなくギターを弾きながら歌っていたそうです。
1963年までは楽曲を出していますが、時代はロカビリーブームからグループサウンズに代わりその後徐々に人気が下降線をたどり、1970年代からは日本各地の地方のキャバレーなどで営業を行っていました。
その後1985年に料理店経営を志すも、9月19日に心筋梗塞のため死去しました。
井上ひろしとドリフターズについて
ザ・ドリフターズと言えば、いかりや長介、加藤茶、仲本工事、高木ブー、志村けんのメンバーで「8時だョ!全員集合」「ドリフ大爆笑」などのコント番組が大ヒットしたコントグルーブと認識されていますが、元々は1951年に結成された音楽バンドのグループです。
現在一般的に知られているドリフターズの体制になったのは1965年ですが、その前身となる初期のドリフターズが誕生したのは1956年のことになります。
音楽バンドの「東京ウエスタンボーイス」と「マウンテンボーイズ」が合併して「サンズ・オブ・ドリフターズ」が誕生しました。
井上ひろしさんは1958年から同バンドのボーカリストとして活躍して、甘いマスクで女性人気も高かったのでその頃のバンド名は「井上ひろしとドリフターズ」となっていました。井上ひろしさんは人気が高かったので1959年には独立してソロ歌手としてデビューしています。
その頃には当時16歳だった坂本九さんもギターボーカルとして参加していました。
メンバーの大量脱退などもあり、小野ヤスシさんなどが参加した後にロカビリーからコミックバンド路線に変化していきその後にいかりや長介さんや加藤茶さんが加入しました。その頃には木の実ナナさんがシンガーとして加入していた時期もあります。
その後小野ヤスシといかりや長介がトラブルを起こして小野ヤスシらが脱退して、いかりや長介と加藤茶だけになった所に高木ブー、仲本工事、荒井中が入り「ザ・ドリフターズ」となりました。
そして荒井中の後に志村けんが加入して一番世間で認知されているドリフターズになっています。
雨に咲く花でリバイバルブーム
井上ひろしさんが1960年に出した「雨の咲く花」がミリオンセラーの大ヒットとなりましたが、元々この曲は昭和初期のソプラノ歌手の関種子さんが歌った曲でした。
関種子さんが1935年に歌ったときも50万枚を売り上げて大ヒットしましたが、その25年後に井上ひろしがんがカバーして100万枚を売り上げて、それからリバイバルブームになったそうです。
井上ひろしさんがカバーする以前にも淡谷のり子さん、山路えり子さがカバーしましたがヒットはせず、井上ひろしさんのカバーで大ヒットした時には関種子さんのオリジナル曲も再ヒットしたそうです。
その後は美空ひばりさんや石原裕次郎さんなどにもカバーされています。
まとめ
今回は「井上ひろしの死因は心筋梗塞!元ドリフターズで雨に咲く花が大ヒット。」と題して記事をお届けしました。
井上さんはドリフターズのボーカルで活躍ごにソロデビューをして数々のヒット曲を出して紅白出場もしました。1985年9月19日に46歳という若い年齢でこの世をさりました。死因は心筋梗塞でした。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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