東京大学在学中に全共闘の論客として活躍し、劇団駒場を設立。現在も多方面で活動を続け、独自の芸術観を発信する文化人として知られ、アングラ演劇の先駆者である芥正彦さん。
今回は「芥正彦の長女の名前はしもん!現在の画像あり【数十年ぶりの対面】」と題して記事をお届けします。
是非さいごまで楽しんでご覧ください!
目次
芥正彦の長女について
1969年に東京大学で三島由紀夫さんと東大全共闘の芥正彦さんが議論を交わしたとき、頭の上に赤ちゃんを抱きながら激論を繰り広げていました。
当時映像で見ていた人は赤ちゃんが男の子か女の子かわからなかったようですが、後に芥正彦さんの長女であることがわかりました。
芥正彦さんの長女について掘り下げて調べて見ました。
芥正彦の長女はしもん
2023年に芥正彦さんの公式Xで長女のしもんさんとのツーショットがアップされました。
三島由紀夫さんと討論したときには赤ちゃんだった長女も現在は50代の素敵な大人の女性になっています。
カラーの写真も見つかりましたがとても綺麗ですね。芥正彦さんと奥さんの離婚後に長女のしもんさんは母親に引き取られて育てられたので、ひさびさの再会だったようです。
芥正彦と長女のその他の情報・最初の奥さんと内縁の妻
続いては芥正彦さんや長女に関するその他の情報やエピソードを見ていきましょう。
最初の妻は藤森黎子(ふじもりれいこ)
芥正彦さんの最初の妻は藤森黎子(ふじもりれいこ)さんです。
藤森黎子さんは東京大学文学部美学科4年生の在学中に芥正彦さんと結婚しました。1967年の在学中には藤森黎子さんと劇団駒場を主宰しています。
芥正彦さんと藤森黎子さんの間に生まれた長女がしもんさんです。
後に2人は離婚してしもんさんは母親の藤森黎子さんに引き取られて育てられました。
内縁の妻は中島葵
芥正彦さん藤森黎子さんと離婚後、内縁の妻として女優の中島葵(なかじまあおい)さんとパートナー関係を結んでいました。
中島葵さんは1945年9月20日生まれ、熊本県熊本市出身の女優。1970年24歳の時にドキュメンタリー映画監督の布施徹郎さんと結婚しますが1972年に離婚しています。
その後31歳の時に芥正彦さんと出会いパートナーとして過ごし、1978年にはホモフィクタスACT&AOI劇団を結成しました。
その後子宮頸がんを患っていることが判明して、闘病生活の後1991年5月16日に45歳の若さでこの世を去りました。
芥正彦のプロフィールと経歴
続いては芥正彦のプロフィールと経歴を見ていきましょう。
プロフィール
・名前:芥正彦(あくたまさひこ)
・生年月日:1946年1月7日
・年齢:79歳(2025年現在)
・出身地:東京都
・職業:劇作家、演出家、俳優、舞踏家、詩人
・最終学歴:埼玉県立浦和高等学校卒業、東京大学教養学部除籍
・代表作:『地下演劇』、『輝く私生児三部作』、『アンチェイン・マイ・ハート』など
経歴
芥正彦さんは1946年1月7日に東京都で生まれた劇作家、演出家、俳優、舞踏家、詩人、そして音楽プロデューサーです。
彼は埼玉県立浦和高等学校を卒業後、東京大学教養学部に入学。しかし、全学共闘会議(全共闘)での活動に力を注いだため、大学を除籍となりました。
その後も舞台芸術の分野で活躍を続け、アングラ演劇を代表する存在としてその名を知られるようになります。
彼のキャリアの始まりは1967年の劇団駒場でのデビュー作『太平洋戦争なんか知らないよ』でした。学生運動の影響もあり、社会や芸術への鋭い視点を持つ作品を次々と発表。
その後もアングラ演劇やシュルレアリスムを基盤とした独自の演劇活動を展開し、『地下演劇』や『輝く私生児三部作』など、時代を象徴する名作を生み出しました。
1978年には女優であり内縁の妻である中島葵と共に「ホモ・フィクタスACT & AOI劇団」を設立。『20C悲劇・天皇祐仁』などの意欲的な作品を発表し、日本の演劇界に新風を巻き起こしました。
その活動は国内に留まらず、海外の演劇理論や舞台表現とも共鳴し続けています。
現在も彼は人形劇や舞台演出、朗読など幅広いジャンルで活動を展開しており、2022年には宮台真司との講演会で現代社会と芸術について語るなど、変わらぬ情熱を持ち続けています。
また、公式ホームページやYouTubeなどのオンラインプラットフォームを通じても彼の作品や活動を発信しています。
このように、芥正彦さんはアングラ演劇の旗手として日本の文化に大きな足跡を残し続けるアーティストです。その活動の軌跡には、演劇だけでなく社会や時代への洞察が色濃く映し出されています。
今回は「芥正彦の長女の名前はしもん!現在の画像あり【数十年ぶりの対面】」と題して記事をお届けしました。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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